努力は人を裏切るのか2

 前項は先人の言葉から考えてみたが、次は僕の実体験から話を始めようと思う。

 僕はゲームが好きだ。最初にプレイした時のことなど覚えていないし、物心付いたときにはゲームをして過ごしてきた。小学生の時は友人たちと誰かの家に集まりスマブラやマリパをやったし、中学生の時には協力してモンハンをやっていた。高校生になると、ゲーセンに行くことが多くなりガンダムvsシリーズをガチャガチャと遊んでいたものだった。人生の結構な割合をゲームに費やしてきた僕ではあるが、対戦ゲームを真面目にプレイしたことはほとんどなかった。ゲームは僕にとって娯楽であり、頭を使わずにガチャガチャやっていれれば楽しいものだったのだ。

 そんな僕に、一つの機会が訪れる。それは「ポッ拳」というゲームとの出会いである。きっかけは些細なもので、高校の同級生に「これおもしれえから対戦しようぜ!」と言われたというありがちなものだ。その同級生は一瞬でやめてしまったが、僕はやり続けていた。人生で初めてゲームの大会に足を運んだし、人生で初めて一生懸命にゲームをやりこんだ。その結果、「上位プレイヤー」と呼んでもらうこともあった。しかし、いろいろなことがありいろいろな要素があった2016年夏、僕はポッ拳をやめた。

 

 十分頑張っただろう、今までの人生で一番頑張ったかもしれない。そう思いポッ拳から離れた僕は愕然とした。なぜなら、あんなに頑張ったはずのポッ拳は僕に何も残してはくれなかったからだ。

 

 嘘だろと思いつつも、それは本当のことだった。ポッ拳というゲームは格闘ゲームの中では多分に特異で、別のゲームにそのまま生かせるような技術はほとんどなかったのだ。僕はそれが本当に悔しかった。自分で必死になって考えたことも、ゲーセンで仲間に教えてもらったことも、なにもかも全部無駄になると思ったからだ。

「僕がこの1年やってきたことは何だったんだろうか・・・」。そう思わずにはいられなかった。

 何かないかと思ったとき、最初に思いついたのは友人であった。ゲームセンターで出会った友人。それは言うまでもなく財産であった。僕は幸いにもポッ拳以外のゲームだったり全然別のこと(バンドとか)で遊べる友人がいたので、得るものはあったなと思うことにした。

 ポっ拳で知り合った友人のうちの一人と、いろいろなゲームをした。その人はもともと格ゲーをやっていた人で、ポッ拳は早々にやめていたのだが、僕もポッ拳を辞めた頃からまた遊ぶようになった。その人と遊んでいた期間は今思えばほんの一瞬だが、いろいろなことを学ばせてもらった。 格ゲーの基本やガンダムの固定での戦い方、ゲーム以外のことでもたくさんのことを教えてもらった。そのとき学んだことは一つのタイトルに限らず同じジャンルすべてに共通することが多かった。そうしていろいろなことを吸収していく中で一つ思ったのだ。(このゲームで学んだことはほかのゲームでも生きる。ポッ拳で学んだこともきっとほかのゲームで生かせるはずだ・・・)。

 それから再びポッ拳をプレイしてみた。そのとき感じたものを素直に言えば、(なんだこのゲーム・・・)である。離れている間にやっていたどのゲームとも違う特異性に圧倒されるばかりであった。しかし少しずつではあったが続けるうちにポッ拳は簡易版の格闘ゲームであるということに気が付いた(この結論については改めてべつの機会に触れることとする)。このことに気づいてからは、ポッ拳におけるこれはほかの格ゲーにおけるこれなのだ等、対応しているものや考え方を見つけていった。そうして、僕の「ポッ拳」の力は「格ゲー」の力の一部として昇華したのだった。

 

 さて、今回のまとめにいこう。知識や経験はそのまま生かせなくとも無駄になることはないということ。しかし、そのまま生かせない場合は対応する部分を見つけたり応用させたりと少しばかり頭を使う必要があるということが重要である。そして、別のものに対応させたり応用するためにはその元となるのものを真に理解しておくことが必要なのだ。要するに、頭使って出した答えや得た経験は引き継げるということであり、逆に頭を使わず脳死で得た経験は引き継ぐことが難しいのである。だが前項での結論の通り、真に理解して取り組んだものこそ努力であると僕は考えているので、努力したものは形はどうあれ引き継げると結論付けたい。

 

 もうちょっとだけ続きます=^・Д・^=

 

努力は人を裏切るのか3

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